ひかるKunのちょうどのおとうふ

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#雑考

伯父のシベリア抑留体験記≪凍原の思い出≫の更新に
今年は3か月半もかかってしまった。。

その間に、伯父の弟である父の命日が過ぎ、
母の入院と心臓の大きな手術、そして母の逝去と。。
色々と悲しいことが私の身の回りに起こった。

この体験記を著した伯父は20年前に亡くなり、
その兄弟である父は、7年前に亡くなり、
伯父に体験記を書くことを勧めた伯父の娘婿も昨年亡くなった。

10/9に亡くなった母の葬儀には、伯父の長男、長女であり、
私の従兄姉も列席して下さったけれど、
伯父のシベリヤ抑留の話を実際にそばで聞いていた人たちが
段々と居なくなってきているのだな、としみじみ思った。

戦争時代を知っている人たちがいなくなってきたと同時に、
世の中には考えにも及ばない悲惨な残忍な事件・事故が起こって、
人心は益々混乱を極めているように思う。

この伯父の≪凍原の思い出≫を更新し始めた7年前に、
戦争を知らない若い人たちに読んで欲しいと思っていたのだけど、
それから7年後の若い人たちは、私の年代よりも
戦争に対する危機感を持ち始めているのかもしれない。

国と国との戦争以前に個人と個人の争いを日常生活の中に感じ、
自己を守ることに必死になっているような気がする。
疑心暗鬼になり、なかなか他人や家族に心を開けない若者が多いように思う。

こんな時代だからこそ、真の平和を希求し、
本当の幸せって何だろうとひとりひとり自分の心に問うことが
だいじなことなのであろう。

父よ!母よ!伯父よ!
あなたたちは、私に絶対的な安心を覚えさせてくれた。
物質的なものではなくて、精神的なものを!

時に不安になっても、それに負けないほどものを教えてくれた。
本当にありがとう。

あなたたちがくれた同じものを娘に息子たちに渡せるだろうか。
どうぞ見守っていてください。

笠島豆富店 ひかるKunのちょうどのおとうふ

















凍原の思い出

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いつもブログを見るのを楽しみにしています☆これからも楽しく読ませて頂きますね!

[ 高崎駅 美容室 ] 2016/10/26 22:36:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

昨年92歳で亡くなった 同町内の同級生のお父さんも「私のシベリア仰留記」を平成8年に出版しているとか・・
同じ場所で苦労した人がいるんですねr・・
神明4丁目の「鳥羽中接骨医」です・・

[ 速歩ランナー(仮装ランナー) ] 2016/12/07 19:29:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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#シベリヤ抑留体験記 #67

     ◆「凍原の思い出」〜あとがき◆

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  一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。

  我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。

  このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。

  そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。

  一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。

  早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。

  これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿であるT夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。

  ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。

  残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。 

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 本日で伯父のシベリヤ体験記「凍原の思い出」は終わります。約70日続けてアップしてきたわけですが、この体験記をブログに更新する度に、伯父がそばにいて話し聞かせてくれているような気がしてなりませんでした。

 恐らくこの小冊子を公に著すため抑えた表現もあったのではないかと思います。本当は、もっともっと辛いことがあったに違いありません。読んでいる人が苦しくなるような表現は避けていたのではないでしょうか。この辛い体験を他者に語るには、思い出すだけでも苦しかったのではないかと思います。戦地に赴いて戦争を経験した人たちの中には、家族にでさえその辛い体験を語らずに亡くなった人も多くいたと耳にします。では、その辛い体験を敢えて小冊子として伯父は著したのか?それは、もう二度と「戦争をしてはならない」という思いを伝えたかったということに尽きると思います。

 この伯父の体験記をもう何年も続けて掲載している私ですが、更新することで伯父の思いを引き継ぎ、同時に亡くなった父のことも想い、そしてこの文章が他の誰かの目にとまり、その人の心(意識)に平和への一石を投じることになれば幸いです。

  今年もずっとお付き合い頂いた方には、心から感謝申し上げます。有難うございました。共に真の平和の道を歩んで参りたいと想います。

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  私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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 【凍原の思い出】の目次ページは こちらです。






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#シベリヤ抑留体験記 #66

◆第三章「地方人としての暮らし」〜吉報を告げた上級中尉◆

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  一九五三年(昭和二十八年)八月、私はその頃しきりに日本のお盆を追憶していたのである。八月初旬のある夕方、「スタルシレチナント」<上級中尉>が我々の住んでいる旧クラスナヤラーゲルのバラックを尋ねて来た。日本人と面接をしたいとの連絡があって、私たちは旧衛門前の看守の詰所に集合するようにと言われた。 

   当時ここには私とT氏、K氏、H氏の四人が住んでいた。私はその時ラーゲル監理局の職員か、警察官かと思った。我々は一人づつ面会することになった。そのとき氏名、生年月日、犯罪条項、刑期、国籍などを聞かれたのである。その時上級中尉は我々に夢のような話をしたのであった。それは、来年三月に「ダモイ」<帰国>出来るので、首実験に来たのだというのである。彼の上級中尉は五十歳くらいで温和な目付きの軍人だった。私はその時、とっさに“これは嘘ではない”という予感がした。彼は「今年はウラジオ近辺から帰すが、君達は来年三月である」と言って帰って行った。我々仲間は手を取り合って喜んだ。

  それから間もなく、ロスケ達が新聞『プラウダ』<真実>に“日本人ダモイの要請をモスクワでスターリンと日本人の政治家が話し合っている”と我々に教えてくれた。その頃はもうすべてのロシア人達は知っていたのである。それから我々は一緒にカンスクに出てきた。元の仲間は無論、道で出会う見知らぬ日本人ともしきりに話し合うようになって、ダモイを心から喜びつつ、その日の来るのを待っていた。

  ある日の事、事務所でナチャニックのイワンに出会った時、彼は「ミシヤ、お前達日本へ帰れば、またチョルマ<刑務所>に入れられるのだろう」と両手の指を二本づつ井の字に重ね右目で私の顔をのぞいて見せたのである。私は首を左右に振りながら、大きく口を開け“「ナチャーニック」<所長>「ヤポン、ノーノー」<日本は違う>”と言い返したのであった。他の二人も一緒に強く否定した。そのとき私は、やはりソ連人はそんな風に考えるのだろうか?といささか悲哀を感じたものだった。またその反面インガシヤのナチャニックと別れる時も真面目に働いてノルマを上げてくれる我々日本人を帰国させるのが辛かったのか、また残念であったのかも知れない、といろいろお互いに複雑な思いをしたのであった。

  そして今思うと、ある日本の作家が<共産主義は嫌いだがロシア人は好きだ>と言ったとか・・・・・。そんなことが思い出されるのである。 

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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