ひかるKunのちょうどのおとうふ

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#終戦の日

今日は、終戦の日

今朝のYahooニュース「72回目の終戦記念日、遺族は世代交代 記憶の継承を」にもあるように、私は叔父のシベリア抑留体験記を語り継ぐ(というには大袈裟かもしれませんが)、戦争をするとこんなに辛く悲しい、悲惨な思いをするのだということを知ってほしくて、インターネット上にアップしています。毎年、終戦の日(私は「終戦記念日」とは言いません)の前後に、アップしていますが、今年は8年目になります。私は、私自身が体力的にパソコン操作ができるまで続けたいと思っています。

伯父の抑留体験は、本当に壮絶なものでしたが。ロシアの刑期を終えてダモイ〈帰国〉を果たすまで民間人として生活していた期間もあります。その時に親切にしてくれたロシア人への感謝の意も忘れずに体験記に表していることが伯父の懐の深さだなぁと思っています。

※今年は、他のサイトでアップさせて頂いています。

伯父のシベリヤ抑留体験記 目次
山本 剛「凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記」



終戦記念日

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#雑考

伯父のシベリア抑留体験記≪凍原の思い出≫の更新に
今年は3か月半もかかってしまった。。

その間に、伯父の弟である父の命日が過ぎ、
母の入院と心臓の大きな手術、そして母の逝去と。。
色々と悲しいことが私の身の回りに起こった。

この体験記を著した伯父は20年前に亡くなり、
その兄弟である父は、7年前に亡くなり、
伯父に体験記を書くことを勧めた伯父の娘婿も昨年亡くなった。

10/9に亡くなった母の葬儀には、伯父の長男、長女であり、
私の従兄姉も列席して下さったけれど、
伯父のシベリヤ抑留の話を実際にそばで聞いていた人たちが
段々と居なくなってきているのだな、としみじみ思った。

戦争時代を知っている人たちがいなくなってきたと同時に、
世の中には考えにも及ばない悲惨な残忍な事件・事故が起こって、
人心は益々混乱を極めているように思う。

この伯父の≪凍原の思い出≫を更新し始めた7年前に、
戦争を知らない若い人たちに読んで欲しいと思っていたのだけど、
それから7年後の若い人たちは、私の年代よりも
戦争に対する危機感を持ち始めているのかもしれない。

国と国との戦争以前に個人と個人の争いを日常生活の中に感じ、
自己を守ることに必死になっているような気がする。
疑心暗鬼になり、なかなか他人や家族に心を開けない若者が多いように思う。

こんな時代だからこそ、真の平和を希求し、
本当の幸せって何だろうとひとりひとり自分の心に問うことが
だいじなことなのであろう。

父よ!母よ!伯父よ!
あなたたちは、私に絶対的な安心を覚えさせてくれた。
物質的なものではなくて、精神的なものを!

時に不安になっても、それに負けないほどものを教えてくれた。
本当にありがとう。

あなたたちがくれた同じものを娘に息子たちに渡せるだろうか。
どうぞ見守っていてください。

笠島豆富店 ひかるKunのちょうどのおとうふ

















凍原の思い出
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いつもブログを見るのを楽しみにしています☆これからも楽しく読ませて頂きますね!

[ 高崎駅 美容室 ] 2016/10/26 22:36:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

昨年92歳で亡くなった 同町内の同級生のお父さんも「私のシベリア仰留記」を平成8年に出版しているとか・・
同じ場所で苦労した人がいるんですねr・・
神明4丁目の「鳥羽中接骨医」です・・

[ 速歩ランナー(仮装ランナー) ] 2016/12/07 19:29:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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#シベリヤ抑留体験記 #67

     ◆「凍原の思い出」〜あとがき◆

笠島豆富店 ひかるKunのちょうどのおとうふ



  一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。

  我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。

  このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。

  そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。

  一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。

  早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。

  これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿であるT夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。

  ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。

  残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。 

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 本日で伯父のシベリヤ体験記「凍原の思い出」は終わります。約70日続けてアップしてきたわけですが、この体験記をブログに更新する度に、伯父がそばにいて話し聞かせてくれているような気がしてなりませんでした。

 恐らくこの小冊子を公に著すため抑えた表現もあったのではないかと思います。本当は、もっともっと辛いことがあったに違いありません。読んでいる人が苦しくなるような表現は避けていたのではないでしょうか。この辛い体験を他者に語るには、思い出すだけでも苦しかったのではないかと思います。戦地に赴いて戦争を経験した人たちの中には、家族にでさえその辛い体験を語らずに亡くなった人も多くいたと耳にします。では、その辛い体験を敢えて小冊子として伯父は著したのか?それは、もう二度と「戦争をしてはならない」という思いを伝えたかったということに尽きると思います。

 この伯父の体験記をもう何年も続けて掲載している私ですが、更新することで伯父の思いを引き継ぎ、同時に亡くなった父のことも想い、そしてこの文章が他の誰かの目にとまり、その人の心(意識)に平和への一石を投じることになれば幸いです。

  今年もずっとお付き合い頂いた方には、心から感謝申し上げます。有難うございました。共に真の平和の道を歩んで参りたいと想います。

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  私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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 【凍原の思い出】の目次ページは こちらです。






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#シベリヤ抑留体験記 #66

◆第三章「地方人としての暮らし」〜吉報を告げた上級中尉◆

笠島豆富店 ひかるKunのちょうどのおとうふ



  一九五三年(昭和二十八年)八月、私はその頃しきりに日本のお盆を追憶していたのである。八月初旬のある夕方、「スタルシレチナント」<上級中尉>が我々の住んでいる旧クラスナヤラーゲルのバラックを尋ねて来た。日本人と面接をしたいとの連絡があって、私たちは旧衛門前の看守の詰所に集合するようにと言われた。 

   当時ここには私とT氏、K氏、H氏の四人が住んでいた。私はその時ラーゲル監理局の職員か、警察官かと思った。我々は一人づつ面会することになった。そのとき氏名、生年月日、犯罪条項、刑期、国籍などを聞かれたのである。その時上級中尉は我々に夢のような話をしたのであった。それは、来年三月に「ダモイ」<帰国>出来るので、首実験に来たのだというのである。彼の上級中尉は五十歳くらいで温和な目付きの軍人だった。私はその時、とっさに“これは嘘ではない”という予感がした。彼は「今年はウラジオ近辺から帰すが、君達は来年三月である」と言って帰って行った。我々仲間は手を取り合って喜んだ。

  それから間もなく、ロスケ達が新聞『プラウダ』<真実>に“日本人ダモイの要請をモスクワでスターリンと日本人の政治家が話し合っている”と我々に教えてくれた。その頃はもうすべてのロシア人達は知っていたのである。それから我々は一緒にカンスクに出てきた。元の仲間は無論、道で出会う見知らぬ日本人ともしきりに話し合うようになって、ダモイを心から喜びつつ、その日の来るのを待っていた。

  ある日の事、事務所でナチャニックのイワンに出会った時、彼は「ミシヤ、お前達日本へ帰れば、またチョルマ<刑務所>に入れられるのだろう」と両手の指を二本づつ井の字に重ね右目で私の顔をのぞいて見せたのである。私は首を左右に振りながら、大きく口を開け“「ナチャーニック」<所長>「ヤポン、ノーノー」<日本は違う>”と言い返したのであった。他の二人も一緒に強く否定した。そのとき私は、やはりソ連人はそんな風に考えるのだろうか?といささか悲哀を感じたものだった。またその反面インガシヤのナチャニックと別れる時も真面目に働いてノルマを上げてくれる我々日本人を帰国させるのが辛かったのか、また残念であったのかも知れない、といろいろお互いに複雑な思いをしたのであった。

  そして今思うと、ある日本の作家が<共産主義は嫌いだがロシア人は好きだ>と言ったとか・・・・・。そんなことが思い出されるのである。 

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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#シベリヤ抑留体験記 #65

◆第三章「地方人としての暮らし」〜夕日のバーニヤ◆

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 一九五三年(昭和二十八年)七月、この季節のシベリヤは猛暑ではあるが、また真夏のもっとも楽しい時期でもあった。

  その頃私達の現場では、街のやや中央の住宅街に建設されていたマンションの基礎工事をしていたのである。その仕事は幅一メートル深さ二メートルの穴掘り作業で、それが出来次第に次は石切山から運び込まれた岩石を一輪車に積み込み板の上を運搬して掘り下げた溝に投げ入れるのである。あとはロスケがミキサー車からセメントを運んで固めるのであった。この仕事は真夏のせいか掘った穴の中には五十センチほど水が溜まり、上から石を投げ入れるため泥水が飛び散って、ズボンは無論顔と裸の上半身は泥まみれになった。それでも気温がたかいので仕事が終わる頃にはズボンがガバガバに乾いたが、裸の部分と顔は痛いほど突っ張った。

  私たちはウォッカ工場のそばを通って帰るのだが、門から一〇〇メートル位塀に沿って来ると、工場廃液の温水をエニセイ川の支流に流しているのである。その場所は年中、女性の洗濯場となっていて、そばでは子供達が大勢水遊びをしていた。

  この温水は工場の二階から木製の桶で、二、三〇メートルほどの距離を二十五度くらいの傾斜で音を立ててながれていたのである。この桶の中に我々が足を踏ん張って縦になって寝ると、ちょうど肩幅と同じ位の幅があって、さながら温水の滝にでも打たれているような感じである。こんな気持ちのいい風呂に入ったのは七年振りのことで、しばし満足感にひたった。三人は夕日を浴びながら大声をあげてはしゃいだのである。さすがロスケ達は“きまりが悪いのか”誰も入らないので、これは我々三人の専用バーニヤであった。五〇メートルほど離れた下手で洗濯をしていたマダム達は、さぞかし「あのヤポンスキー・・・・・」と言って呆れていた事だろう。そう思うとおかしくもあり、またずいぶん思い切った事をしたものだとも考えるのである。 

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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#シベリヤ抑留体験記 #64

◆第三章「地方人としての暮らし」〜ウォッカと女性ナチャニック◆

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  一九五二年(昭和二十七年)十二月の初め頃であった。我々三人はウォッカ工場に三日間、地下の古くなったケーブルの撤去工事のため派遣された。最終日は特に寒さの厳しい朝で、空には雲が一面銀色に垂れこめていた。ロシア人は厳寒を「マローズ」と呼んだ。その朝の気温は氷点下四十度はあったと思う。煙突から吐き出される煙は、空に立ち上る事も出来ず、横に静かに流れている状態であった。工場の高い櫓や、三階四階の建物は、モクモクと立ち込める蒸気に包まれ、暖房のないと思われる倉庫、階上の渡り廊下などの個所は工場の雑音の中で、黒く薄汚れた部分を見せていた。また、工場内を行き交う「アラボーチ」<労働者>の姿が、蒸気の中で忙しく動いている。

  我々の仕事は凍った地下の古いケーブルを引き上げる作業である。シベリヤでの冬の穴掘りはまことに重労働であった。深さは一メートル位だったがなかなか前進できないまま、三日間が過ぎた。三日間で我々の引き上げたケーブルは、わずか十メートル位のものである。五時頃になって我々は道具を一ヵ所に集め、発電所の事務所の前の玄関に腰を下ろし、寒さの中でマホルカを巻きサイレンを待ちながら休憩をしていた。

  ちょうどその時、事務員らしい娘がガラス製の容器に水を入れ、片方の容器にウォッカを入れて、我々の腰掛けていた後ろに「サァー呑みなさい」と言って置いた。我々は突然のことで、びっくりして顔を見合わせた。私が訳を聞くと、ここの「ナチャニック」<所長>は女性であることが分かった。ナチャニックは我々日本人が一生懸命働いてくれた事への感謝なのか、それとも作業の最終日だったためなのか?また、格別寒さの厳しい日だったからか?とにかく彼女からのサービスであった。ところで大変気持ちは嬉しかったが、残念ながらあいにく三人共アルコールに弱かったのである。そのまま何とか言ってウォッカを返した事はまことに失礼だったと思っている。これがロスケだったら奪い合いだったろうに、と思わず苦笑した。

  その時私には、見たこともないのに所長は気持ちの優しい女性なんだナーと思われた。どんな女性なのか顔も見られず、「スパシーボ」<ありがとう>の一言も言えず、夕暮れの門を出たのである。そしてこの工場には二度と入ることはなかった。 

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

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#シベリヤ抑留体験記 #63

◆第三章「地方人としての暮らし」〜月夜の晩の薪泥棒◆


 一九五二年(昭和二十七年)十一月、我々はカンスクに住むようになって最初の冬を迎えた。ある寒さの厳しい晩のことである。バラックの薪が残り少なくなって、朝の食事の用意に支障があってはと、三人で薪の仕入れに行くことに決まり、身支度をした。綿の入った上着の上から五メートルぐらいのロープを胴に巻き付け、「タポール」<手斧>を腰に下げた。これは我々ヤポンスキーが仕事をするときの年中通してのスタイルである。

  さて目指す場所はレンガ工場の窯場である。その晩はつきのとても明るい夜であった。場所はバラックから五、六〇〇メートル離れていた。勝手の知っている我々は、私が先頭になって真っ白なはらっぱを縦列でどんどん前進した。幾棟も並ぶ乾燥小屋の周囲一帯は、広くバラ線の塀で囲まれている箇所に突きあたった。

  我々は焦らずゆっくり一人ずつ潜り抜け、中へと侵入していった。三〇メートルほど進んで窯の前に到着した。窯場は乾燥場のほぼ中央にあって、丁度日本の大きな炭火窯の恰好によく似ていた。我々が着いたときは、まだ窯に火は入ってなく、焚き口近くまで薪がばらばらに置かれていた。薪の種類は三種類くらいで、一メートルほどの長さに切ってあり、これらは全部生木であった。私はおもむろに胴からロープを外した。まずU字型に置き、その上に五本並べて寝転んだ。やっとの思いで担ぎ、背中を起こしたが、仲間の二人は立ち上がるのに全力をあげてもがいている恰好がおかしかった。自分もやっとの思いで立ち上がったくせに・・・。

  ようやく三人そろって歩き出したが、少し行くとこんどはバラ線をくぐり抜けなければならなかった。そこでロープをゆるめ、背中の薪を雪の上にドサッと置いた。それを一本づつ塀の外へ放り出したのである。その頃は全身すっかり汗をかき、再び、担ぎ直して腰を曲げながら、三人は一列になって、フーフー言いながら雪のはらっぱを進んでいった。この蟻のような姿を見ていたのは、月だけだったのではあるまいか。いささか気がとがめた。

  やっとの思いでバラックに着き、思いっきり腹を抱えて笑いあった。あの時の二人は、今頃元気でいるだろうか?私は最近この原稿を書くようになってから無性に懐かしく思い出している。

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#シベリヤ抑留体験記 #62

◆第三章「地方人としての暮らし」〜秋晴れの一日

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 一九五二年(昭和二十七年)九月、秋晴れの朝であった。私が現場の長「ナチャーニック」イワンに呼ばれて事務所に行ったのは、出勤して間もない九時頃だった。

  その頃私達の仲間三人は、カンスクで一番大きなウォッカ工場の、廃液を郊外へ流すための、穴掘り作業をしていた。直径四〇センチ長さ四メートルの鋼管を連結する工事であった。

  イワンは、“公園に植樹するから、あとの二人を連れて行き白樺の立木をトラックに一台運んで来い”と言った。

  無論のこと運転手はロスケで、道具を積んですぐ出発となった。トラックが二十分ほど走ると、運転手は街外れに住んでいたのか、彼の家の前に車を止めて中から猟銃を持って出て来た。

  トラックは私が二年前、かって南ウラルへ送られる時に中継所として足を止めた事のある、カンスクのラーゲルの側を走って行った。その時、私は懐かしさのあまり二人にその時の様子を説明した。

  やがて車が大地を登りきったとき、遥に見えるカンスクの街並みそして眼下一望出来るラーゲルの四角な建物が見えた。その時はなんとも言えない複雑な思いがした。

  途中の平原を走っている時に、あっちこっちの巣穴から立ち上がって、首を左右に動かしてキョロキョロと周りを見回しているリスに似た小動物がいた。運転手は車を止めて何発か発射した。彼はその時二匹射止めたのであった。車は一時間ほどして目的地に着いた。広い白樺林の前で小休止をする。運転手は煙草をくわえたまま、銃を左手に下げて辺りを見回していた。

  我々はナチャニックに言われて来た通り、手首ほどの太さで三メートル位の高さの白樺を根っこから掘り起こした。汗を拭きながら、二時頃までにはトラックに一台積み込む事が出来たのである。

  この運んだ白樺の木は、街の中央広場にこれから出来る公園造りに使用するもので、我々は夕方までに二十本ほどを全部移植し終えたのであった。私はこの時、門の前の左側へ五本も一列に植えた事を、今でも鮮明に記憶している。

  あれから、四十年近く経ったが、あの時汗だくで植えたあの白樺の木は、どの位大きくなったろうか。何とも感慨深いものがある。

  果たしてあの公園は、今はどのような姿になって市民の憩いの場になっているのだろうか。などなど、フト思う事もある。

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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#シベリヤ抑留体験記 #61

◆第三章「地方人としての暮らし」〜今夜はソ連兵

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 カンスクに来て、初めての秋が近づいて来た。 

 工場の敷地から一〇〇メートルほど離れた所に、帰化している中国人の農家が三、四軒あった。そこは人参畑で生計を立てていたのである。

  ある日、夜業の休憩時間にミキサー係のロスケが、我々三名に「パイジョン」<一緒に行こう>と言って外に出た。私は何か手伝うのかと思った。五〇メートルほど行くと、そこは人参畑であった。ロスケは我々にホフク前進せよと手まねをした。我々は“今夜はソ連兵”としてその指揮下に入ったのである。敵は本能寺にあらず、中国人の人参畑であった。その時私は再び囚人に戻る事を恐れ、いささか恐怖感を覚えたが、引くに引かれず夢中になって手当たり次第に引き抜いた。十五本位腹で押さえて、皆と一緒に引き上げたのであった。獲物は五、六本を娘達にくれてやり、皆で葉を残さず始末して、その夜、それぞれ持ち帰ったのである。

  翌日も夜業であった。皆で休憩している時、中国人が一人談判にやって来たが、ロスケ達に言いまくられてすごすごと立ち去った。しばらくして皆で大笑いした。私も笑ったものの、何となく中国人に申し訳なく気がとがめた。ミキサーのロスケは“お前の家の犬も何をしていたのだ”と笑いながら喋りまっくっていた。

  これは長い秋の夜業での生活劇の一コマであった。  

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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#シベリヤ抑留体験記 #60

◆第三章「地方人としての暮らし」〜土採り作業とカルメック人

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 我々三名が採用されたのは、カンスク市でも国営の大建設会社で、社長は囚人帰りのユダヤ人と聞いていた。

  会社の敷地には発電所、木工場、レンガ工場と土木部門などに分かれていた。我々の指定された仕事は、レンガ工場の土採り作業である。

  班長はカルメック人の五〇歳位のオッさんで、彼等の仲間五名と我々の三名、総員八名が工場から三〇〇メートルほど離れた平地にレールを敷き、トロッコに両側から純土を積み上げると、工場までロスケの「馬車追い」が運搬するのである。往復で四〇分くらいかかった。その間に小休止やら次の準備をしておく。

  工場では電気係、ミキサー係のロスケと娘さん達八名で仕事を分担し、レンガの裁断係、それを運搬台に並べる者、乾燥場まで手押車で送る者、最期は棚に並べる者と手順よく働いていた。休息時間はロシア娘のオシャベリや合唱で、とても賑やかで楽しかった。

 ここでは若いカルメック人が我々日本人を信用していたのか、よく愚痴を聞かされたものである。聞くところによれば、彼等はカスピ海方面の温暖な地方から、ある日突然ロスケの兵隊に追い立てられるようにして三時間以内に駅に集められ、そのままシベリヤに送られ、この町カンスクに定住したとの事であった。土地、家そして羊も何もかも置いて来たとか、我々はそばにロシア人がいる事でもあり、心の中で同情しながら聞いたものであった。カルメック人は蒙古人によく似た顔をしていた。彼等は皆我々にとても良くしてくれたが、ロスケ達からは信用されていなかったように私には思われた。その時、つくづくソビエトは多民族国家である事に感心したものであった。

 この土採り作業は二・三日もするとだんだん砂が混じるので急遽場所を移動する事になった。それが大変なことで、三〇メートルほどの長さのレールを、五〇メートルも離れた所へ動かす事は、かなりの重労働である。昼休みになると、カルメック人が中国産のお茶を我々にもごちそうしてくれた。 

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   私の伯父:山本剛は、1990年9月彼の戦争体験を『凍原の思い出〜私のシベリヤ体験記』という一冊の本に著しました。

  当時、平和な暮らしの中にあって、戦争の悲劇を再び起こさぬように申し伝えることこそ、自分の責務であると感じ、晩年貪るように書き続けていたと従姉妹から聞いています。挿絵も伯父が描いたものです。 

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 【凍原の思い出】の目次ページは こちらです。





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ひかママ
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全国の保育園・幼稚園・学校給食・病院給食などで愛されて800万食!「ひかるKunのちょうどのおとうふ」を、色々なエピソードをまじえて皆さんにご紹介したいと思います◎
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